仕立て屋(したてや)という言葉を聞かなくなりました。
仕立て屋とは、オーダーメイドで紳士服を作るお店です。
昭和50年代頃まで、町の商店街の一角には、ショーウィンドーの大きな一枚ガラスに、洒落た字体で、○○テーラーとか、○○洋裁などと書きこまれた仕立て屋が必ずあり、お店の奥には、ミシンを踏んでいる店主が見えました。
仕立て屋には、既製服はありません。
着物の反物(たんもの)のような、巻物状の布地がたくさんあるだけです。
客は、鏡の前に立ち、肩から布地をあてがい、好みの色や素材の布地を選びます。
服のデザインは、客の要望をききながら、仕立て屋が、スケッチを描き、形を決めていきます。
デザインが決まったら、客の身体を採寸し、製図をし、その人のサイズに合わせた、世界でたったひとつの型紙をおこします。
おこした型紙をもとに、客が選んだ布地にハサミをいれ、洋服のパーツにわけます。
パーツごとになった布を、粗い縫い目の手縫いで、いったん、全部、縫い合わせます。
「仮縫い」と呼ばれる段階です。
「仮縫い」では、実際に、客に試着してもらい、不具合がないか、確認します。
続いて、客の身体にピッタリな洋服に仕上がるように、細かく寸法を調整し、「本縫い」段階に移ります。
「本縫い」では、ミシンを使って、しっかりと縫上げます。
完成したら、もう一度、客に試着してもらい、最後のサイズ確認と微調整です。
こうして出来上がった洋服は、日本の和服のように、美しい芸術品です。
仕立て屋に作ってもらったスーツは、着る人の品位を高め、公式の場に、相応しい洋服です。
仕立て屋は、洋服作りの全行程を独りで行う技量を持っています。
デザイン画を描き、それをもとに、製図を作り、型紙に移し、布を裁断、縫製という全ての作業です。
直線部分のない、でこぼこな人間の身体に合わせた、立体的な洋服を作るには、洋裁の理論を熟知していなければなりません。
洋裁の理論は、専門の学校や親方の元で、修業を積みながら勉強できます。
正しく、洋裁の理論を身につけるのは、大変です。
しかし、一度その理論を身につけてしまえば、応用がきき、どんなデザインの服にも対応できます。
もちろん、洋裁の理論を知らずとも、簡単なデザインの洋服は、誰にでも、作れますが、公式の場に相応しい、スーツやタキシードを作ることは、洋裁理論を知らなければ、不可能です。
模型飛行機の設計も、洋裁と共通です。
1903年、ライト兄弟が世界初動力有人飛行を成功させました。
ライト兄弟以前、航空界の先進国はヨーロッパが中心でした。
特にフランスが一番進んでいましたが、アメリカ人のライト兄弟に一番乗りを許してしまいました。
理由はライト兄弟が空気力学の理論をもとに科学的な実験をし、無駄な時間を使わなかったからです。
ライト兄弟以後、航空界では、空気力学や、流体力学の数式を応用し、計算式から、機体を設計するようになっていきました。
二度の世界大戦の影響もあり、飛行機を設計する核となる理論は、その誕生から、わずか数十年で、確立しました。
日本の航空界の先達たちも、自分たちが学んだその理論を、思い思いの言葉で、本にまとめました。
この数式を使う航空機設計理論は、人を乗せる飛行機だけでなく、模型飛行機にも、応用できます。
模型飛行機も、洋服と同じように、既製モデルもあれば、個人のオリジナルもあります。
模型飛行機をより良く、自在に飛ばそうとすると、マニアたちは、既製モデルでは、満足しなくなります。
オリジナルの機体を設計し、飛ばしてみたくなるのです。
高校生になった石井さんも、まさにその一人でした。
高校時代、石井さんは、前原君と遊んだプラモデルから原寸型取りした紙飛行機から卒業し、ラジコン飛行機に夢中でした。
ラジコン飛行機には、小さなエンジンがついており、飛行範囲も距離も速度も紙飛行機の何倍も広がりました。
ラジコン飛行機の飛ぶ様子は本物の飛行機ようで、操縦を誤ると高価な機体はバラバラになってしまいました。
石井さんは、このスリリングな機体をもっと良く飛ばしたいがため、難解な航空機設計の理論書を読み始めました。
倉敷市の本屋さんに、足蹴く通っては、難しい本を次々と購入し、読破していきました。
本屋の主は、分厚い専門書をほんとうに、石井さん自身が読むのかと、疑いの目で見るほどでした。
石井さんが通った高校、日大付属高校は、とても自由な学校でした。
同級生たちは、気が良いけれど、やんちゃ坊主で、しばしば、先生たちを困らせていました。
授業進度も大変のんびりで、石井さんは、思う存分、航空機設計理論の理解に没頭で
きました。
こうして高校3年間を過ごすうち、石井さんの航空機設計理論の知識は、大学で、航空工学を学ぶ大学生以上のレベルに達してしまいました。
~つづく~
2017年4月17日
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