パフィン物語 No.11~正阿弥勝義と斉藤さん~



うつくしきもの、ちさきもの(小さいものは美しい)


平安時代の女流歌人 清少納言が随筆「枕草子」で語ったように、日本人は千年も前から

自然界の小さな存在を美しいと感じ、愛でてきました。


小鳥や野ばらは、西洋でも美しいと感じますが、鈴虫の鳴き声やホタルの光にまで

哀愁を感じるのは、日本人だけです。


小さくて、はかなくて、可憐な存在をいとおしく思い、金属を使って永遠の命を与えた

岡山出身の金工師がいます。


正阿弥勝義(しょうあみかつよし)です。


正阿弥勝義は武士の世の終焉、天保3年(1834年)津山藩のお抱え金工師の三男として生まれました。


江戸では天才浮世絵師、葛飾北斎が富嶽三十六景を発表し、その名を世間に広く知られたころです。


お抱え金工師というのは、武士の魂である刀の装具に彫金する人です。


応仁の乱以後、国内は百年も戦国時代が続き、武士の刀は戦いの道具として実際に使われていました。


しかし、江戸幕府が開かれてからは、太平の世が200年以上も続き、刀は、もはや戦いの道具ではなく、武士の身分を表す象徴的なものとして、意匠を凝らした美しい細工が施されるようになります。


鍔(つば)と呼ばれる刃の終わり部分にはめる楕円形の金属部分には特に芸術性の高い彫金が施されました。


正阿弥勝義はその鍔(つば)の金工技術を幼いころから修業し卓越した技術をもった職人でした。


正阿弥勝義の兄も同じ金工師で、アメンボやカワセミなど郷愁を誘う日本の小さな自然風景を彫金した素晴らしい鍔(つば)を残しています。


正阿弥勝義の兄は、大政奉還後、廃刀令と同時に48歳の若さで亡くなってしまったので、自分の素晴らしい職人技が新しい時代にそぐわない苦しみを味わうことはありませんでした。


しかし、弟の正阿弥勝義は、自分がこれまで頑張ってきた刀装飾の仕事がもはや、

時代に必要とされなくなったという哀しい現実にさらされるのです。


廃刀令によって彫金の技術を活かせる場を失い多くの同僚たちが、活路を見いだせず、消えていくなかで、勝義は新しい時代にふさわしい作品を創作することによって、世界を驚愕させる金工師に生まれ変わります。


勝義が明治以降に創作した作品は、鈴虫やカマキリの置物、

てんとう虫がとまっている花瓶、トンボや蟹の香炉、と日本の愛らしい小さな自然を

金工で立体的に表現しているのです。


勝義が生み出した金属のトンボや蝶々は完璧な写実性をもっており、その超絶技巧に驚かされますが、よそよそしさはなく、見るものを幸せにする朗らかさがあります。


象徴的な存在とはいえ、元々は戦いの道具だった刀を装飾する技術で、勝義は、新しい時代にふさわしいものに転換させ、誰もが微笑まずにはいられない日本の小さな愛らしい自然美を芸術作品として残したのです。


時代変化の波に翻弄されながらも勝義を支えたのは、彼が幼いころから身につけた彫金技術です。


スポーツでも音楽でも職業としてその道で独り立ちできる技術を身につけるには幼いころから始めることが不可欠なのは常識です。


模型飛行機工作も同様です。


大学の航空科の学生になってから初めて模型飛行機工作を始めるのでは遅すぎるのです。


パフィン号の設計に関わった斉藤さんは正阿弥勝義のように、素晴らしい模型飛行機工作の腕前をもった青年でした。


斉藤さんが模型飛行機工作を始めたのは5歳の時です。


大人でも工作するのは難しいゴム動力のライトプレーンを5歳児の斉藤さんは2,3日おきに、一機完成させ、飛ばしていきました。


誰にも教わったわけでもなく、黙々と幼子が飛行機工作を続け、斉藤さんが中学生になったころには、完成機は500機を超え、その腕前は圧倒的でした。


斉藤さんは日大理工学部で航空工学を学ぶ学生で、石井さんの一年後輩です。


飛行機設計理論を高校生までに独学で身につけた石井さんと、5歳から模型飛行機工作の腕前を磨いてきた斉藤さんのコンビで作ったラジコン機、AKA02(赤鬼号)AO02(青鬼号)は、

当時、世界最小のラジコン機体でありながら、素晴らしい運動性能を持っていました。


どこにもない、今までに誰も作っていない極小のラジコン機を完成させた石井さんと斉藤さんは、国際試合にまでつながっている本格的な競技会でお披露目することにしました。


その競技会はパイロンレースと呼ばれるスピードを競うレースです。


地上に立てられた2~3本のパイロンをいかに早く周回するかを競う男らしいレースです。


このパイロンレースは、大型エンジンを搭載した機体ならば、時速300キロも出ることもあり、ラジコン機でありながら迫力満点です。


このレースに参加する人が飛ばす機体は、搭載するエンジンの排気量によってクラスがわかれます。


標準的なクラスは「40(よんまる)」、少し小さいものは「10」というように、エンジンの数字が小さくなるほどパワーも小さく、スピードも落ちていきます。


斉藤さんと石井さんは、当時の日本で最も小さいクラス「05」エンジン搭載機体のパイロンレースで赤鬼・青鬼号をお披露目しました。


赤鬼・青鬼号のエンジンは、その「05」の半分以下の「02」を搭載していました。


今までのラジコン界の常識で考えれば、「02」エンジンが「05」エンジンに勝てるはずがないのに、あろうことか、赤鬼・青鬼号は、トップタイムを上回る記録を出してしまいました。


驚いたのは、レースの取材にきていた「ラジコン技術」の記者でした。


少年の面影を残す青年ふたりのお手製ラジコン赤鬼・青鬼号が、パイロンレーサー・ラジコン機の記録を上回ったのですから。


「ラジコン技術」の記者は、青年ふたりに、すぐに赤鬼・青鬼号の設計と工作の記事を依頼し、その連載が始まりました。


石井さんは機体設計について、斉藤さんは工作について。


ふたりのコラボ連載は14年後のパフィン号誕生の伏線となったのです。


2017年9月8日

~つづく~

パフィン物語

超軽量飛行機ウルトラ・ライト「パフィン号」が、空を飛ぶまでの、実在のお話です。

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