パフィン物語 No.10 ~飛行機マニアいろいろ~


「わんぱく王子の大蛇(おろち)退治」は日本の神、素戔嗚(すさのおのみこと)を主役にしたアニメ映画史に残る金字塔的作品です。


このアニメ映画のクライマックスは、わんぱく王子こと、スサノオが空を駆けることができる天馬、天早駒(アメノハヤコマ)にまたがり、八つの頭を持つ大蛇、八岐大蛇(やまたのおろち)と繰り広げる空中戦です。


この空中戦は、飛行機マニアである芹川有吾(せりかわゆうご)監督のアイデアによって、水平攻撃、返り打ち、体当たり、同士打ち、急降下攻撃などのリアルな飛行機の動きを表現するために、300カット、動画枚数、一万枚以上が使われました。


人間を一飲み(ひとのみ)する、恐ろしい大蛇の攻撃をかわしながら、空を縦横無尽に駆け巡るスサノオとアメノハヤコマの臨場感あふれる空中戦シーンは、そっくりそのまま、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」で見ることができます。


ドイツ語でカモメを意味する「メーヴェ」という名のエンジン付きの軽量飛行装置に乗る王女ナウシカが、敵から逃げるシーンです。


風の谷のナウシカは、ギリシャ神話に登場する王女ナウシカと同じように、可憐で美しい乙女です。


その乙女ナウシカがメーヴェで自由自在に大空を飛び回る衝撃的で魅力的なシーンは、実は、「わんぱく王子の大蛇退治」のスサノオとアメノハヤコマの空中シーンが元だったのです。


宮崎駿監督の最大の特徴である飛行シーンが登場するジブリ映画のきっかけとなった飛行機マニアの芹川有吾監督は、1931年生まれ、第二次世界大戦終戦時、14歳でした。


敗戦国日本は、終戦から6年間は、一切の航空機に関する研究・製作を禁じられました。


封じ込められた、飛行機好きの当時の少年たちの想いは、芹川有吾監督のように、姿を変え、社会に噴出しました。


その一つに模型飛行機を電波で操縦する遊び、ラジコン飛行機があります。


ラジコン飛行機の機体材料やサイズは様々ですが、いずれも、ラジコン飛行機用の性能の良いエンジンを搭載させ、コントローラーで電波操縦し、本物の飛行機のように飛ばすのです。


このラジコン飛行機の操縦は難しく、長年経験を積まないと、なかなか自分の思うように飛ばせません。


ラジコン飛行機はとても奥が深く、子供の入門レベルから、オリンピックさながら世界大会の競技会まで存在します。


ラジコン飛行機の楽しみ方には、いろいろありますが、大きく3通りに分かれます。


操縦に重きを置く人と、キット組み立てに重きを置く人、そしてまったくのオリジナル機を作る人です。


操縦上達には、実際に、飛ばして、たくさん練習するしか方法はありません。


最初から、上手に飛ばせる人は、ほとんどいないので、せっかくの高価なラジコン飛行機の操縦をあやまって、初飛行で、いきなり破損させてしまうという経験を持つ人がほとんどのようです。


お財布と心に痛い思いをしながら、操縦の練習を積み、ラジコン飛行機の面白さに取りつかれてゆくようです。


次に、機体の製作にこだわる人は、複雑なラジコン飛行機のパーツを職人技のように、器用に丁寧に仕上げることにより、キットからでも他者を圧倒するような飛行性能を持つ機体を自らの手で製作します。操縦に重きを置く人に比べて圧倒的に数が少ないです。


3番目のオリジナル機を製作する人は、もっと少数です。


なぜなら、充分な航空力学の知識、つまり実機を作る知識を持っていないと、手先が器用なだけでは飛ばせる機体にならないからです。


生半可な知識で、オリジナル機を製作し、時間を無駄にするよりは、組み立てマニュアル通りに製作すれば、必ず飛ぶキット機体か、もしくは、組み立て済みの機体を購入し、操縦練習に時間を充てたいのが、人間の心理というものです。


ラジコン飛行機のマニアたちが愛読し、参考にしている雑誌、「ラジコン技術」があります。

この「ラジコン技術」は1961年に創刊された、無線操縦専門誌として、世界で最も古い歴史を持つ雑誌です。


ラジコンマニア向けの専門雑誌で、販売部数は毎月大幅に増減することもないのですが、1975年のある時期だけ、異常に売上が伸びたことがありました。


それは、このパフィン物語の主人公、石井潤治が大学生4年生の時に「超小型ラジコン入門機」というタイトルで10回にわたって連載記事を書いた時でした。


2017年7月22日

つづく

パフィン物語

超軽量飛行機ウルトラ・ライト「パフィン号」が、空を飛ぶまでの、実在のお話です。

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