昨年秋、前号から、9か月間の空白ができてしまった。
物語は、ちょうどストーク号が登場したところだった。
夫の憧れの人であり、今や、私の飛行機の師匠でもある石井潤治氏のひとことが、私の書く手を止めてしまったのだ。
「ストーク号については、詳しく書いてください。」
パフィン物語は、超軽量飛行機パフィンが誕生するまでの物語で、パフィンの生みの親である石井氏の飛行機人生を専門知識のない私が、独自の視線で描いてきた物語である。
スタート時には、専門知識がなくとも、取材や、資料に目を通すくらいで、何とか執筆は進んだが、No.12「コルディッツ・コックと人力飛行機」を仕上げてから、私は行き詰ってしまった。
「もう、限界だ、これ以上書けない。」
私はそう感じて筆をおいて、一冊の英語の本の翻訳を始めた。
MAN-POWERED AIRCRAFTと題された本は、ストーク号で世界記録を出したパイロット加藤隆士氏の遺品である。
加藤隆士氏は、日大卒業後、オーストリアに単身渡り、働きながらプロのグライダーパイロットとなった。
空が大好きな彼はグライダーで世界中を飛び、たくさんの人に夢を運んだ。
彼のグライダー人生でもっとも、衆目を集めたのは、大学時代、1977年の人力飛行機ストーク号での世界記録樹立と、1987年モーターグライダーチロル号での冒険である。
チロル号の冒険は、オーストリアから日本までの2万キロを飛んだ、38日間の空の旅である。
モーターグライダーは海鳥のような細長い翼をもち、いったん高度が出たら、エンジンを止め上昇気流を探し、捕まえた上昇気流の中で失った高度を再獲得しながら飛行を続け、旅客機のように交通を目的としない、純粋なスポーツ飛行機である。
その華奢なスポーツ飛行機グライダーで加藤氏は2万キロの空の冒険に出発し、見事にゴールした。
チロル号の冒険から26年後、加藤氏のラストフライトのゴールは、しかし、その時彼が目指した沖縄県ではなく、天国になってしまった。
2013年3月15日、北海道女満別空港を出発した加藤氏は、天候不順の中、日高山脈で帰らぬ人となった。
加藤氏のお住まいは北海道である。
加藤氏は、オーストリアでのグライダー経験から、日本で最も適した地域は北海道だと見抜き、そこに住まいを構え、残りの人生を日本でのグライダー啓蒙にささげたのだ。
加藤氏の死を知った石井氏は、若いころ、がむしゃらに追った飛行機のすべてを今日まで封印してきたこと、それがあまりにも長すぎたことを、悔やんだ。
ストーク号で、パイロットと設計者の関係であった加藤氏と石井氏は、大学卒業後、お互いにどこまでも自分のポリシーを曲げず、こだわりぬいた人生を送った。
加藤氏の墜落死は、石井氏が人生を一巡し余裕が生まれたころ、ご自身の飛行機人生を振り返り、書物にまとめたいと考えを温めていた矢先の出来事だった。
石井氏はストーク号にかけた青春時代について、誰よりも加藤氏と振り返ってみたかったのだ。
ストーク号で世界記録を樹立したのち、加藤氏と石井氏は、連絡を取りあうことはほとんどなかった。
しかし、お互いに、人生を全力疾走しているのであろうという、確かな手触り感があった。
それがトップを走るもの同士の心の支えであったに違いない。
どこかに忘れ物をしたような喪失感を抱いて、石井氏は、加藤氏亡き後、北海道の自宅に、奥様を訪ねた。
訪問を終えて数年後、ある日倉敷に住む石井氏のもとに、加藤氏の奥様から、一冊の本が届いた。
何かのお役に立つならば、と最愛の夫の蔵書を送ってくださったのである。
その本は今、私の手元にある。
昨年秋から、翻訳をはじめたMAN-POWERED AIRCRAFTである。
パフィン物語の執筆に行き詰った私を見かねて、石井氏が提供してくださったのである。
本は14章の構成で、人力飛行機の歴史が詳しく書かれている。
イカロスの神話から、最終的にクレーマー賞を獲得したアメリカのゴッサマーコンドル号までである。
ゴッサマーコンドル号はマックレディ博士(当時は51才)が設計した、人力飛行機だ。
マックレディ博士はグライダー競技で何度も優勝経験をもち、航空関係の会社を立ち上げた全米一の空のエキスパートのおひとりである。
ゴッサマーコンドル号を製作・試験飛行していることは極秘に進められ、情報が漏れないようにしていたことが、その本に書かれている。
暗中模索の人力飛行機の黎明期、これまでの世界記録は、うまく飛んで1071メートルという時代に、マックレディ博士の耳にストーク号が体力の余裕を残しながら2093メートルを飛んで世界記録を更新したという、寝耳に水の驚くべきニュースが飛び込んできた。
マックレディ博士は、第二次世界大戦時は、アメリカ空軍のパイロットだった。
ここからは、私の勝手な推測も入るが、マックレディ博士の脳裏には、ストーク号の世界記録更新が、ゼロ戦の活躍と重なり、よみがえったのではないか?
1903年、ライト兄弟が動力初飛行を達成してから、数十年ほどで、飛行機は大躍進した。
1909年、フランス人ブレリオが20キロほどのドーバー海峡横断に成功しただけで、航空界は大騒ぎだった。
それから30年ほどで戦争に飛行機が登場し、人間が鳥のように空を自由に飛び回った。
日本は当初、軍が新発明の飛行機導入には懐疑的だったので、ヨーロッパ勢から遅れをとったが、その後の巻き返しは、恐るべきものだった。
おそらくその巻き返しは、ゼロ戦で頂点を迎える。
小さな島国の日本で、武士の刀のような、切っ先鋭い、小回りの効くゼロ戦が開発され、アメリカ中を震撼させ、終戦後、敗戦国の日本は、いっさいの航空産業を禁止される。
日本人は、二度と、飛行機は作ってはいけません、と戦勝国からおふれがでたのだ。
その期間は7年にもおよび、日本中に生まれた素晴らしい航空技術を持つ技術者たちは、行き場を失ってしまった。
日本の禁じられた素晴らしい航空産業は、皮肉なことに、自動車やオートバイ産業に生かされて、日本製の2輪4輪は、戦後、世界のトップメーカーになってしまった。
いろいろとアメリカには面白くない、戦後当初に描いていた絵柄とは違う日本の産業発展だが、人力飛行機の世界でも、誰もが憧れる、クレーマー賞獲得に王手をかけたのは、日本人で、しかも学生チームだったのである。
「けしからん!」ストーク号の世界記録更新のニュースをマックレディ博士は、そう思ったに違いない。
私の仮説は正しかった。
加藤氏の本のクライマックスは、まさにその1点に焦点をあてて、構成されていた。
それから、もうひとつ、私がこの本を翻訳していて、感激した一文がある。
それは、石井氏に対する著者の評価である。
One student, Junji Ishii, was an expert designer, and Professor Kimura left him in charge of the new MPA, called the Stork.
(あるひとりの学生、石井潤治、彼は航空機設計の達人だったので、木村教授は新型機ストークの責任を彼にゆだねたのだ。)
最終章の上記の一文まできた時、私は感動した。
なぜなら、おそらく石井氏の航空機設計の才能を真から認めていたのは、故木村秀政教授であろうが、私の夫もまたそのひとりだったからである。
パフィン号とそのふたり乗りのレモン号の開発から販売まで、深くかかわった夫は、その後も、石井氏のことを、ほめそやした。
特に、毎夏、琵琶湖で行われる鳥人間コンテストが放映されている時はそうだった。
毎年毎年、テレビの前で、夫は言った。
「石井さんならね、琵琶湖大橋を越えて、対岸まで行って、折り返して、また、プラットフォームにもどる飛行機を作るよ!」
鳥人間コンテストは、ストーク号が1977年1月2日に世界記録を樹立したことがきっかけで、同年の夏、7月2日から始まったテレビ番組である。
鳥人間コンテストは今年で41回目を迎え、昨年はついに、鳥人間コンテストファンたちの長年の夢だったコースを完全に往復するという大記録(40,000,00m=40km)まで出たが、スタートして十数年は、専門知識を持つグループでさえも、なかなか飛行距離500mの壁が厚かった。
石井さん、石井さんと、繰り返す夫に、私は複雑な心境だった。
ほとんどお会いしたことのない、「石井さん」に畏怖の念を覚え、また少し嫉妬した。
夫があんなにも、褒める石井さんってどんな人なのだろう。
おそらく、夫が急死しなければ、私は「石井さん」に連絡をとることもなかったろうが、そうせざるを得なかった。
夫のパフィンのイラスト図を勝手には出版できないから。
2016年11月4日、石井氏に、初めて真正面から向き合ってお話をしたとき、あまりにも気さくな方で驚いた。
世界が認めるその航空機設計の才能など、意に介してないようだった。
常に前を向き、新しいことに、挑戦なさっておられ、ちょうど、NHKの番組スゴ技「紙飛行機飛行距離対決」で、インメルマンターン機を開発し、公衆の注目を集めた直後だった。
2016年11月4日、石井氏に、夫のパフィン号イラスト出版の許可をもとめるはずだったのに、いつの間にか、私がパフィン物語を、そして、今ではストーク号物語まで書くことになってしまった。
私の本業は歌である。
ヨーロッパのオペラ歌手たちが歌っているような、のびやかな発声に憧れて、イタリアまで行った。
帰国しても、のびやかな発声で歌い続け、それを広めるにはどうしたらよいか、試行錯誤の毎日である。
歌は、身体が楽器なので、自分の身体のあらゆる部分の開発と調和をとらねばならない。
何かが、ひとつ欠けても、飛び出しても、いけない。
まるで、飛行機の設計が、すべてのパーツの調和をめざすように。
石井氏は言う、「航空専門外の人の方が、誰にでもわかる文章を書けるはずだ。」と。
なんだか、上手くおだてられている気がしないでもないが、私の文章を喜んでくださる方がおられるのは、とても光栄なことであり、何よりも夫への供養となるであろう。
2018年7月28日
大江利子
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