世界でもっとも知られた名画「モナリザ」はパリのルーブル美術館の2階に常設展示され、訪れた人なら、誰でも鑑賞できます。
「モナリザ」の寸法は縦77センチ、横53センチ、防弾ガラスにしっかりと守られた、この小さな油絵の作者は、イタリア・ルネサンスの天才画家レオナル・ド・ダヴィンチです。
レオナルドは67歳の生涯を閉じるまで、半世紀以上も、画家でありつづけましたが、完成させた絵画は、驚くほど少なく、「モナリザ」も未完の作品です。
実際に絵筆を取る前に、入念な準備と手間をかける主義だったレオナルドの作品は、完成の日の目をみずに、驚異的な構想と、デッサンだけに終わったものがたくさんありました。
たとえば、レオナルドが53歳の時に、フィレンツェ(当時はフィレンツェ共和国)から、市庁舎の大会議室の壁に描くように依頼された壁画「アンギアリの戦い」は、もしも完成されていたならば、前代未聞の素晴らしい作品になるはずでしたが、彼が新しい描き方を試したために、下絵が、はく落してしまい、途中止めになってしまいました。
しかし、「アンギアリの戦い」の肉迫した素晴らしいデッサンは、当時の画家たちは、もちろんのこと、後世の画家たちをも感嘆させました。
レオナルドよりも31歳年下で、聖母子像で有名なラファエロは、レオナルドの「アンギアリの戦い」のデッサンを模写し、自分の絵の中にそっくり取り入れてしまったほどでした。
( ↓ ルーベンスが模写した「アンギアリの戦い」)
「モナリザ」に代表されるレオナルドの絵の素晴らしさは、比類のない、モデルのみずみずしい肌や、柔らかい表情、衣服や背景のリアルな質感ですが、その秘密は、一体どこからやってくるのでしょうか?
それは、輪郭線を用いずに、絵の具の濃淡だけで、物の形を浮かび上がらせるように描かれた、スフマートと呼ばれる技法で、その繊細かつ緻密な技法は、レオナルド自身によって、極められた描き方なのです。
レオナルドは、幼い頃から、非常に絵の天分を示したので、14歳の時に、ルネサンスの中心地フィレンツェで、評判の高い画家であり、彫刻家でもあるヴェロッキオの工房に弟子入りし、正式に絵の修行をはじめました。
同門には、「ビーナスの誕生」や「三美神」で名高い、ボッティチェリもいました。
21歳の時には、師ヴェロッキオの絵画「キリストの洗礼」の天使像を任されますが、師匠よりも弟子の方が、素晴らしい絵を描いたために、ヴェロッキオは絵筆を折ってしまった、との逸話が残るほどの腕前をもつ画家に、レオナルドは成長します。
しかし、まだこの段階では、レオナルドの天使像は、たいへん巧みに描かれてはいますが、師ヴェロッキオや、当時のその他、ルネサンス時代の画家と同じような描き方をしています。
21歳で師をしのぐほどの腕前なのに、その地点で決して満足せず、そこを出発点として生涯かけて独自の科学的なアプローチによって絵を進化させ、レオナルドはスフマート技法に到達したのでした。
レオナルドの独自の科学的な研究の過程は、残存する5000枚以上もの手書きメモ(レオナルドの手稿)によってうかがい知ることができます。
レオナルドが、夢中になっていたことは、ものの「動き」を分析することでした。
鳥の羽ばたきや、馬の走り、水や風の流れなど、自然界のあらゆる動きを、科学的に解き明かして、自分の絵の中に再現しようと、試行錯誤した証(あかし)が、レオナルドの手書きメモなのです。
レオナルドの画風が大きくガラリと変わった時期があります。
それはレオナルドが45歳の時の作品「最後の晩餐」からです。
「最後の晩餐」はイエスが12人の弟子たちに向かって「この中に裏切り者がいて、私は十字架にかけられる」と語りかける場面です。
レオナルドは、イエスの12人の弟子たちのそれぞれ異なる瞬間的な表情をドラマティックに構成し、ひとつの絵の中に、そのすべてを表現することに成功しました。
「最後の晩餐」からレオナルドの絵には、持ち前の繊細で緻密な筆さばきは、そのままに、リアルな人間の動きをとらえた神業のような、素晴らしいデッサン力が加わって、画風がガラリと変わったのです。
この神業のようなデッサン力を、いったいどうやってレオナルドは手に入れたのでしょうか?
もちろん、師ヴェロッキオに学んだわけでもなく誰か他の人の真似でもありません。
それは、ルネサンス時代も、現在でも、常軌を逸した方法、しかし、当たり前で科学的な方法でした。
レオナルドは37歳のころから、人体の解剖をしていたのです。
リアルな絵を描くために、人間の身体の内部の仕組みを理解するために、骨と筋肉の付き方、内蔵の位置、形、血管の状態まですべてを、レオナルドは、観察し、デッサンしました。
「モナリザ」の静かな微笑みを浮かべた、あの乳白色のしっとりとした肌の下には、どんな表情筋が存在し、どんな頭蓋骨があるかを、熟知したレオナルドだからこそ、輪郭線を使わず、色の濃淡だけで形を描く、スフマート技法まで到達したのです。
日本の人力飛行機の黎明期にも、レオナルドの「最後の晩餐」のように、ガラリと変わった機体がありました。
それはのちにパフィン号を作ることになる石井氏の卒業研究の年、1976年の人力飛行機ストーク号です。
黎明期の日本の人力飛行機は、日大理工学部の卒業研究で学生たちが完成させた人力飛行機そのものでした。
人間の筋力だけを動力とする飛行機は、理論的には不可能ではありませんが、とても難しい分野で、ましてや成功したとしても、商業的には、まったく価値のないものでしたから、もちろん世界の航空機メーカーも本気で取り組むところはありませんでした。
しかし日大教授の木村秀政先生は、理論的には難しいことですが、航空工学の専門の学生たちの実践力を養うためには、素晴らしい課題だとして、1963年から、卒業研究として取り入れてきたのです。
初代リネット号は暗中模索のなか、3年間かけて初飛行し、NHKの「プロジェクトX」にも取り上げられました。
その後の日大人力飛行機は、リネット号は5号機まで、その次のイーグレット号は3号機まで作られました。
その飛行距離は、初代リネット号が15メートル、イーグレット3号機が203メートルまで着実に記録を伸ばしてきました。
その15メートルから203メートルまで、日大学生たちの作った記録の歩みは、すなわち、日本記録の歩みでもあったのです。
期間にして、ちょうど10年間でした。
そして、イーグレット3号機の203メートルの翌年、ストーク号の記録はガラリと変わって、595メートル、さらに翌年、同じ機体で、ストーク号は、2093,9メートルの驚異的な飛行距離を出し、日本記録はおろか世界記録をたたきだしたのです。
この、まるでレオナルドの「最後の晩餐」ように、ガラリと変わった記録更新には、やはり、人体の解剖と同じように、ストーク号設計者の科学的なアプローチがありました。
ストーク号設計者石井氏は、過去の世界のさまざまな人力飛行機の細部の数値を一覧表にし、解析し、比較検討し、まるで人体の解剖のように、人力飛行機の細部にいたるまで、最適な数値がでるまで繰返し検討し、ノートに記していたのです。
さらにこれら詳細なデータを元に、各部を極限まで最適化する空気力学や構造力学上のアイデアを温めていたのです。
それを知っていた木村秀政先生は、石井氏にストーク号設計をすべて一任しました。
ストーク号を一緒に作った仲間たちは、その設計の真価を理解し、一心不乱に大学生活の最後の時間を、捧げました。
たったひとつしかない、日大の作業場(格納庫)は、石井氏を含む11名の学生のために場所を開けられ、先輩たちも後輩たちも、静かにストーク号のロールアウト(初飛行)を心待ちにしてくれました。
この時の石井氏は21歳、才能はあるものの、あまりにも若い設計者に、先輩たちや、材料を調達してくれた人たち、たくさんの人たちが、見えないところで、力を貸してくれました。
レオナルドには、助けてくれる人がいなかったので、スフマート技法を確立し、「モナリザ」に着手したのは、53歳の時で、ついに未完におわりましたが、石井氏には、その才能を愛でて、助けてくれる人たち、支えてくれる人たちがいたので、22歳にして、ストーク号は世界記録をだしたのでした。
2018年9月14日
大江利子
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