パフィン物語 No.3 嘉香(よしか)ママと少年時代2016.12.29 08:45 岡山県は、全国で、もっとも雨が、少ない県です。一年365日のうち、270日以上は、晴れの日です。雨は少ないですが、真夏でも、水不足にはなりません。大きな河川が、3本も、流れているので、田んぼは、いつも、青々とし、秋には必ず、美味しいお米が、豊作です。 その名が、示すように、岡山県では、県の東西南北、どちらへ向いても、緑豊かな、山々に囲まれ、自然のゆりかごの中に、包まれ、安心して、暮らせます。そんな、岡山県の中でも、特に、穏やかな地域が、あります。備中(びっちゅう)と、呼ばれる地域です。備中(びっちゅう)は、白桃と、ピオーネと呼ばれる、大粒のブドウの、名産地です。白桃もピオーネも、とてもデリケートな、果物で、安定した日照時間と、強風が少ないことが、必須です。備中(びっちゅう)は、どちらの条件も満たし、毎年、宝石のような白桃や、ピオーネが収穫されます。パフィン号を作った、石井さんのお母さん、嘉香(よしか)さんは、その備中(びっちゅう)出身です。穏やかな、備中(びっちゅう)の、気候のように、嘉香(よしか)さんは、春の陽だまりのような、人です。嘉香(よしか)さんは、第二次世界大戦時、女学校の学生でした。終戦後は、地元の小学校の、先生を頼まれました。(岡山空襲の後の岡山市)嘉香(よしか)さんの、お父さんは、村人の信頼厚い、責任感の強い、村長さんでした。第二次世界大戦前後、戦争のために、学校が滞り、子供たちの勉強が、ないがしろに、なっていました。村長のお父さんは、子供たちの未来を案じて、自宅を開放し、子供たちの先生役が、嘉香(よしか)さんだったのです。嘉香さんの家には、子供たちが、いつも大勢集まって、寺子屋のようでした。そんな嘉香さんに、白羽の矢がたち、終戦後、小学校の先生を、頼まれたのです。嘉香先生は、子供たちの人気者でした。穏やかで、声を荒げることもなく、わかりやすい、嘉香先生の授業に、子供たちは、大喜びでした。嘉香さんが、先生をしたのは、たった、2年間だけです。けれど当時の子供たちは、嘉香先生のことが、忘れられず、60年以上も、月日が流れた同窓会に、嘉香(よしか)先生を、招待しました。先日、これらのお話を、嘉香(よしか)さん、本人から、直接うかがいました。ご高齢であること、体調が優れないことなど、微塵も感じさせず、まるで、昨日のことのように、当時のことを、お話くださり、穏やかで、魅力的な語り口に、私も、すっかり、嘉香(よしか)先生の、ファンになってしまいました。嘉香(よしか)さんが、たった2年間で、先生を辞めたのは、結婚のためです。あまりにも、先生に、はまり役の、我が娘を心配した、お父さんが、縁談を、持ってきたのです。お父さんが、選んだ相手は、裸一貫から、鉄工所をたちあげた、バイタリティー溢れる、石井さんのお父さん、澄夫(すみお)さんです。澄夫(すみお)さんと、嘉香(よしか)さんの、間に生まれたのが、石井さんです。母になった嘉香さんの、教育方法は、先生時代と、変わりませんでした。嘉香(よしか)ママの、穏やかで、春の陽だまりのような、愛情は、幼い石井さんの好奇心を,どこまでも、伸ばしました。少年時代、石井さんが、特に、熱中したのは、小鳥の飼育です。つがいで、小鳥を飼うと、卵が産まれ、ひなが孵(かえ)ります。どんどん増える、小鳥たちのため、嘉香(よしか)ママは、石井さんのために、庭に大きな、特注の鳥小屋を、作ってもらいました。誕生から、死まで、鳥の生態をつぶさに、観察できたことは、その後の、石井さんの飛行機作りの、土台となったのです。その後も、嘉香(よしか)ママに、見守られ、石井さんは、興味をもったことは、どこまでも、追求していく、楽しさを学びました。ものづくりにとって、とても大切なことは、どこまでも、追求する心です。何か、新しいものを、この世に、送り出すとき、大勢のひとが、納得するもの、でなければいけません。飛んで楽しむ飛行機、なんて、いくら面白い、アイデアでも、それを形にして、製品化するには、世の中の人が、納得する形まで、どこまでも、追求し、超えなければならない、ハードルが、たくさんあります。どんなに、高いハードルも、楽しいと、思える人になり、パフィン号を製品化した、石井さんの土台は、嘉香ママと過ごした、少年時代なのです。2016年12月29日パフィン物語超軽量飛行機ウルトラ・ライト「パフィン号」が、空を飛ぶまでの、実在のお話です。フォロー2017.01.12 02:11 パフィン物語 No.4 ~能登のおじさんの絵画教室~ 2016.12.10 15:47パフィン物語 No.2 石井さんのお父さんの龍の橋0コメント1000 / 1000投稿
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