20150129kan

バッタ君(KLX 650)と鳩サブレ号(GPZ 250R)とボルティ君(スズキ volty)に 乗っています。

いつか夫の遺した ビモータYB 8(1000㏄)を 乗りこなせるような ライディングテクニックを 身につけたいと、ジムカーナ練習会や大会に 参加していました。

二輪デビューが 52歳からなので、遅咲きで、狂い咲きのライダーです。

普段は、歌とピアノとバレエの先生をしつつ、物書きも しています。文芸社から「ガンピの翼ストーク」という飛行機と和紙の本を出版しました。
たまーに、コンサートも し

記事一覧(15)

パフィン物語 No.13 ~スフマート技法とストーク号の設計~

世界でもっとも知られた名画「モナリザ」はパリのルーブル美術館の2階に常設展示され、訪れた人なら、誰でも鑑賞できます。「モナリザ」の寸法は縦77センチ、横53センチ、防弾ガラスにしっかりと守られた、この小さな油絵の作者は、イタリア・ルネサンスの天才画家レオナル・ド・ダヴィンチです。レオナルドは67歳の生涯を閉じるまで、半世紀以上も、画家でありつづけましたが、完成させた絵画は、驚くほど少なく、「モナリザ」も未完の作品です。実際に絵筆を取る前に、入念な準備と手間をかける主義だったレオナルドの作品は、完成の日の目をみずに、驚異的な構想と、デッサンだけに終わったものがたくさんありました。たとえば、レオナルドが53歳の時に、フィレンツェ(当時はフィレンツェ共和国)から、市庁舎の大会議室の壁に描くように依頼された壁画「アンギアリの戦い」は、もしも完成されていたならば、前代未聞の素晴らしい作品になるはずでしたが、彼が新しい描き方を試したために、下絵が、はく落してしまい、途中止めになってしまいました。しかし、「アンギアリの戦い」の肉迫した素晴らしいデッサンは、当時の画家たちは、もちろんのこと、後世の画家たちをも感嘆させました。レオナルドよりも31歳年下で、聖母子像で有名なラファエロは、レオナルドの「アンギアリの戦い」のデッサンを模写し、自分の絵の中にそっくり取り入れてしまったほどでした。( ↓ ルーベンスが模写した「アンギアリの戦い」)

パフィン物語 番外編~加藤氏の本~

昨年秋、前号から、9か月間の空白ができてしまった。物語は、ちょうどストーク号が登場したところだった。夫の憧れの人であり、今や、私の飛行機の師匠でもある石井潤治氏のひとことが、私の書く手を止めてしまったのだ。「ストーク号については、詳しく書いてください。」パフィン物語は、超軽量飛行機パフィンが誕生するまでの物語で、パフィンの生みの親である石井氏の飛行機人生を専門知識のない私が、独自の視線で描いてきた物語である。スタート時には、専門知識がなくとも、取材や、資料に目を通すくらいで、何とか執筆は進んだが、No.12「コルディッツ・コックと人力飛行機」を仕上げてから、私は行き詰ってしまった。「もう、限界だ、これ以上書けない。」私はそう感じて筆をおいて、一冊の英語の本の翻訳を始めた。MAN-POWERED AIRCRAFTと題された本は、ストーク号で世界記録を出したパイロット加藤隆士氏の遺品である。加藤隆士氏は、日大卒業後、オーストリアに単身渡り、働きながらプロのグライダーパイロットとなった。空が大好きな彼はグライダーで世界中を飛び、たくさんの人に夢を運んだ。彼のグライダー人生でもっとも、衆目を集めたのは、大学時代、1977年の人力飛行機ストーク号での世界記録樹立と、1987年モーターグライダーチロル号での冒険である。チロル号の冒険は、オーストリアから日本までの2万キロを飛んだ、38日間の空の旅である。モーターグライダーは海鳥のような細長い翼をもち、いったん高度が出たら、エンジンを止め上昇気流を探し、捕まえた上昇気流の中で失った高度を再獲得しながら飛行を続け、旅客機のように交通を目的としない、純粋なスポーツ飛行機である。その華奢なスポーツ飛行機グライダーで加藤氏は2万キロの空の冒険に出発し、見事にゴールした。チロル号の冒険から26年後、加藤氏のラストフライトのゴールは、しかし、その時彼が目指した沖縄県ではなく、天国になってしまった。2013年3月15日、北海道女満別空港を出発した加藤氏は、天候不順の中、日高山脈で帰らぬ人となった。加藤氏のお住まいは北海道である。加藤氏は、オーストリアでのグライダー経験から、日本で最も適した地域は北海道だと見抜き、そこに住まいを構え、残りの人生を日本でのグライダー啓蒙にささげたのだ。加藤氏の死を知った石井氏は、若いころ、がむしゃらに追った飛行機のすべてを今日まで封印してきたこと、それがあまりにも長すぎたことを、悔やんだ。ストーク号で、パイロットと設計者の関係であった加藤氏と石井氏は、大学卒業後、お互いにどこまでも自分のポリシーを曲げず、こだわりぬいた人生を送った。加藤氏の墜落死は、石井氏が人生を一巡し余裕が生まれたころ、ご自身の飛行機人生を振り返り、書物にまとめたいと考えを温めていた矢先の出来事だった。石井氏はストーク号にかけた青春時代について、誰よりも加藤氏と振り返ってみたかったのだ。ストーク号で世界記録を樹立したのち、加藤氏と石井氏は、連絡を取りあうことはほとんどなかった。しかし、お互いに、人生を全力疾走しているのであろうという、確かな手触り感があった。それがトップを走るもの同士の心の支えであったに違いない。どこかに忘れ物をしたような喪失感を抱いて、石井氏は、加藤氏亡き後、北海道の自宅に、奥様を訪ねた。訪問を終えて数年後、ある日倉敷に住む石井氏のもとに、加藤氏の奥様から、一冊の本が届いた。何かのお役に立つならば、と最愛の夫の蔵書を送ってくださったのである。その本は今、私の手元にある。昨年秋から、翻訳をはじめたMAN-POWERED AIRCRAFTである。